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「自分のダンスを踊れているか?」Watusiロングインタビュー。還暦を迎えたベテランが語る音楽人生の処世術とは?

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あの、プリンス、マイケルジャクソン、そしてマドンナと同じ年に生まれたベテランに、COLDFEET結成秘話や、あの若きプロデューサーの父との意外な関係、キャリアにまつわるお金や健康の話、そして自身の見据える未来についてなど、40年以上の音楽生活を振り返ってもらった。
2018/09/04 07:00
admin
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今年で活動20周年を迎えるCOLDFEET、そして近年ではTokyo Discotheque Orchestra、DUBFORCEなど、還暦を迎えてもますますエネルギッシュに活動するプロデューサーのWatusi。

1958年9月1日生まれ。あのプリンス、マイケル・ジャクソン、そしてマドンナと同じ年に生まれたベテランプロデューサーに、40年以上の音楽生活を振り返ってもらった。

COLDFEET結成秘話、あの若きプロデューサーのとの意外な関係、キャリアにまつわるお金や健康の話、そして自身の見据える未来についてなど、余すところなく語ってくれた。

コンピューターは道具じゃない。バンドメイトだから、どうやって自分の出したいと思った音を返してくれるかよく考えて欲しい

- いつ頃から音楽制作をスタートしたんでしょうか?

Watusi: 幼稚園の時にピアノをやってたんだけどすぐに断念しちゃったんだよね。それからちゃんと意識して音楽を始めたのが小学校4~5年くらい、ギターを弾き始めたかな。ベースをやり始めたのは中学に入ったくらいから、それこそサンタナ(米出身のラテンロックバンド)とか緩いインストのバンドを耳コピして演ってたな。

COLDFEETを結成したのは1998年。その時は既にバンドメンバーとしては7回目のメジャーデヴューだった。最初にメジャーでシングルを出したのが78年だからメジャーデヴューしてちょうど今年40周年でもあるよ。

- それまでずーっとバンドだけで渡り歩いていたということですか?

Watusi: いや、78年にメジャーデヴューした頃はサザンオールスターズ等の流れもあって、ポップスにバンド形式のスタイルが混ざっていく時代で。当時組んでたバンドのドラマーがイマイチだったって理由でプロデューサーがリリースの時に彼を入れてくれなかった。僕にとっては大事なバンドメンバーだったのに...。それが理由で自分のやりたい音楽はバンドではできないなと思って自分でスタジオを作る方にシフトしたんだ。

- どのようにしてスタジオを組んで行ったんですか?

Watusi: 19,20歳くらいから宅録の機材を買い溜めるようになった。当時は1,000万円あっても何にも組めない時代だったから機材屋に行って「男の60回払い!」みたいな感じで、それこそ長い道のりだったけど30代まで少しずつ増やしていったよ。

- イメージするだけで相当のお金がかかってたと思いますが...?

Watusi: 音楽制作の仕事以外にもカラオケの制作仕事とか、不定期でバックバンドをやったり。夜中は機材を運ぶ車の運転。それから有名歌手のディナーショーや劇版を打ち込みで作ったりもしてたな。

そうそう、TREKKIE TRAXでリリースを重ねてるMasayoshi Iimoriくん。彼のお父さん、たまたま大学の後輩でキーボーディストってこともあって打ち込みもうまかったから、当時色々教えてもらったりしたんだよ。

- え!?そんな繋がりがあったんですか?

Watusi: 昔、Iimoriくんからご両親の結婚式の写真を見せてもらって「川井 憲次さん(攻殻機動隊のサントラなどで有名な作曲家)と富田ラボさんとCOLDFEETが写ってる!!」なんてのがあったりしてね(笑)。

彼の父もスタジオを作って活動してたから、一緒に音楽活動をやろう!ってことで。一緒に制作会社をやって、とにかく遮二無二なって営業の電話をかけては本当に色んな楽曲制作の仕事をこなしていったな。時代も良かったってのもあるけど、30代までは割りと倍々な感じで仕事も増えてスタジオも大きくなっていったね。

- 当時30年くらいの前のセットアップと現在と比べて、制作環境の良し悪しなどは変わりましたか?

Watusi: 昔はちゃんとした音楽を作るってなると必ず「スタジオにいく」のが当たり前だった。そこにプロの音楽家やエンジニアがいて、彼らが一堂に集まって音楽を作ってたから、プロ同士の意見の交換やそこから学ぶことが本当に多かった。みんなで切磋琢磨することで、いろんなゴールも見えてくるからね。でも今は自宅がスタジオで先生はYouTube。共演者とはネットでやりとりすることが多くなったから、より刺激が少なくなってしまったのかもしれないね。

- それはここ10年、20年で劇的に変わりましたね。

Watusi: それこそ今やっている楽曲制作塾(Watusiの私塾)でも「コンピューターは道具じゃない。バンドメイトだから、どうやって自分の出したいと思った音を返してくれるかよく考えて欲しい」とアドバイスしているよ。

- キャリアを通してずーっと使ってる機材はありますか?

Watusi: ここにあるTR-808は発売した次の月に買ったかな。それから、ずーっと使ってるのはUreiのコンプレッサー。ここに置いてあるギターのいくつかも30年前に買ったのがあるね。

それこそ、今いるスタジオの4倍以上の機材やレコードがあったけど、本当に大事なもの以外は売ったり、後輩にあげたりしちゃったね。

- 逆に最近オススメの機材はありますか?

Watusi: FORMAっていうVUメーターだね。これを作ってくれた「HAYAKUMO」の早雲健悟くんの努力で本当にコンパクトで性能のいいものができたよね。お酒の席で提案したアイデアがここまで形になるのは本当にビックリしたよ。それこそ独りでの制作はエンジニアとやる機会が少ないから最終的な「基準音」を知るのが難しい。だからこれがスタジオに置けるのは本当に重要、そう言った意味でも今一番オススメしたいのはコレだね。(VUメーターFORMAの記事はコチラ。制作者の早雲さんとWatusiさんのエピーソードも)

 

最終的にできた楽曲をリリースするかしないかは「自分のダンスを踊れているか?」に決まってくる。人にどう聴かれたいかとかそういうことではなくて、どれだけ自分の音を出していくかということだと思う。それが自分の痕跡になるからね。

- COLDFEET結成のキッカケについてのエピソードを教えてください。

Watusi: 90年代にコロンビアレコードの中にあった小さなレーベルで実験的に宅録での制作にトライしてた時期があったんだ。それこそPlo Toolsも出る前。

そこでジャズ系のダンストラックなどを作って10~15組くらいのアーティストをデヴューさせて海外でツアーを回ったりしてた時期で、ある時海外のプロモーターから「お前はどんな音をやってるんだ?」と聞かれて。

思えば自分の名刺代わりの音楽がないなと感じて、その時から少しずつ自分名義の楽曲を作ろうと思って制作を始めてできたのが1997年にリリースしたCOLDFEETの最初の楽曲。

当時インストのトリップポップやドラムンベースが好きだったから1から10まで1年半くらいかけて仕事の合間で全部自分で作ったんだ。

※COLDFEETによる最初のアナログ。1997年リリース、その翌年メジャーデヴュー。

で、トラックはできたけど「なんか完成しないな」「やっぱりヴォーカルが必要だ」と思った時に別の制作で知り合ったのがLori Fineだった。

当時海外に向けてリリースしたかったから。英語の歌詞がいいなと思ってたし、彼女に歌ってもらったのが97年。その翌年にはメジャーデヴューしてたんだね。自分の名義も海の向こうでも読みやすいように「Watusi」に決めて本格的にCOLDFEETがスタートしたんだ。

- COLDFEETのデヴューから環境の変化はありましたか?

Watusi: やっぱりLoriとの出会いは自分にとって本当に大きかった。

海外で仕事をする際の人との付き合い方や、僕も英語を使って仕事をするようになったし。それだけじゃなく、彼女の音楽に対する姿勢やメンタリティーなんかは本当に勉強になったな。

ニューヨークでレコーディングした時もチェックインしたばっかりのホテルの隣の部屋から彼女の歌声が聴こえたり、200%出し切る彼女の姿を見て「Lori Fineスゲエな」って思った。

- 40年以上のキャリアの中で人付き合いで教訓になったことはありますか?

Watusi: 江戸アケミさん(80年代に活躍した日本のファンクロックバンド「じゃがたら」のヴォーカル)に言われた「オマエはオマエのダンスを踊れ」ってアドバイス。つまり、COLDFEETで楽曲を作って、最終的にできた楽曲をリリースするかしないかは「自分のダンスを踊れているか?」に決まってくる。

人にどう聴かれたいかとかそういうことではなくて、誰かの仕事を受けている時もリクエストに応えながらどれだけ自分の音を出していくかということだと思う。それが自分の痕跡になるからね。

人生のプロデューサーは自分しかいない。座るべき席がちゃんと探せて、しかもその席に何人の人が座れるか、それが読み取れる人が生き残っていけると思う

- 今までで大きな病気にかかったりとかはあったんですか?

Watusi: これは本当にありがたいこと。今まで特に思い病気はなかったな。でも30代の時はよく過労でぶっ倒れて入院してたけど(笑) 。長時間座る仕事がメインだから背中とか腰とかを痛めることが多い。昔、座りすぎで座骨を疲労骨折したこともあるよ。まさに職業病みたいなもんだよね。

- 特別健康に気を使ってたことはあったんでしょうか?

Watusi: 水は毎日1,5リットルは飲むようにしてる。あとは16:8生活は取り入れているかな(1日24時間のうち、16時間は絶食状態にして、8時間は通常の食事をする、ファスティングの1つ)。

それで悪いものを流したりとか。昔は走ったり、プールとか運動も色々やってたけど...。なかなか続かなくてさ...。

週末地方に行くとなかなか8時間の規則も守るのも難しいし、できる限りという部分で平日に取り返したり。なんでも食べていいと決めてる8時間もラーメン、餃子にカロリーを気にせず好きなものを食べているし、そういう意味では割と自由だね。

- インタビューさせていただいていてもエナジーが伝わってきますが、正直60歳には全然見えないですよ。

Watusi: COLDFEETをやって20年続きました。で、この先の20年のことをふと考えた時にもしかしたらもう音楽やってないかもしれない。下手したら死んじゃってるかもしれないってふと思って(笑) 。

急に寂しくなったもんだから、最近改めてやりたいことを書き出してみたんだ。持続力があるタイプじゃないから時間かかるな〜と思って計算したら全部で40年分あった。だから後40年は音楽続けようと思ってるよ。

- 40年後は100歳ですね...

Watusi: でも100歳になってもDJできると思うんだ。DUB FORCEとの親交の深いオーバーヒートの石井さんなんか73歳なんだけど、毎週日曜になったら若者に混じってスケボーやってるし。

健康だったら年齢なんて関係ないよね。これからどんどんそういう時代になって行くと思う。いつか「あの人86歳でまだ大箱クラブのメインフロアでDJしてるよ!」なんて言われたら最高じゃん。

- 逆に60歳になる今までキャリアを続けられた秘訣はなんですか?

Watusi: まず自分のセンスを理解すること。若い頃にできた感覚を変えるのはなかなか難しいから。歳を重ねて行くごとに自分がどんな空間や人とマッチするか考えること。良し悪しの問題ではなくて、やっぱり合う合わないってのはあるからね。

それから人生のプロデューサーは自分しかいないってこと。自分の座るべき席がちゃんと探せて、しかもその席に何人の人が座れるか、更に言うとその席に座りたい人が何人待っているのか、それが読み取れる人が生き残っていけると思う。

100人座れる席に1,000人が待ってたら厳しいなって思うけど、2~3人しか座れない席で4~5人が待っていたら「もしかしたらいけるかも?」ってなる。

1,000人に愛される仕事だけが全てじゃない。4~5人が「世界で一番好きです」って言ってくれれば、多分仕事になると思うんだ。だからその席を自分で見つけて座れるように、自分をプロデュースして欲しいな。

- ズバリ、一番儲かった時と貧乏だった時っていつなんですか?

Watusi: 悲しいことに...人生のピークは31~32歳くらいだったんだよね。それこそCOLDFEETを始める10年近く前は制作の仕事で一番稼いでたよ。

代理店とバリバリ仕事して、会社も作ってね。でも一番貧乏だったのはその半年後。バブルが弾けたタイミングだった。弾けた瞬間は何がなんだかわからなくて、稼いだはずのお金が全然入ってこなかったり。その時、年収で億まで行くかと思ってた銀行の通帳に残ったのが120円だったのは今でも覚えてる(笑)。

- 漫画みたいな話ですね...

Watusi: で、残った120円で食べたカップラーメンが美味しくて。その時思った。「1億でも、120円でもお金に頓着はしないんだな」って。

それからお金の為に働くのは止めようって。自信もついて、自分のやりたい音楽をやれた。自分で企画書を書いて、いろいろやらせてもらえるようになった。

- 今の時代だとアーティストやDJで食べていくのはすごく大変ですよね?

Watusi: 今も昔も音楽で食うのは大変だと思う。ここ数年限って言えばパトロンがいなくなってしまったね。それこそ昔はレコード会社がアーティストをしっかりサポートしていた時代だった。今はそういう時代ではなくなってしまった。

でも、例えば自分の音楽をサポートしてくれる人が1,000人がいて、彼らが1年間で1万円分自分の音楽を買ってくれたら、1千万円になる。そしたら生活できるよね?そうやってシンプルに考えてみる。身近な1,000人のファンを大事にしようってなったら結構できそうな気がして来ない?

- 簡単そうに聞こえますが、難しい部分もありますよね。

Watusi: そのためには自分から行かないといけないよ。何か状況を変えるためには自分からだよなって思う。

プロでやる以上思い出づくりで音楽やっても仕方がない。自分の席がどこにあるか、どんな椅子に座りたいかで変わってくる。それを探せる時間は結構短いから、どれだけ早く自分を磨けるかがすごく大事なことだと思うよ。

- Watusiさんの今後のプロジェクトの予定があれば教えください

Watusi: COLDFEETが活動20周年を迎えたのでアルバムを作っています。20年やって8枚目のアルバムで、今回のテーマが「自分たちの為だけのアルバム」なんだ。

今までは必ずレーベルありきで、ディレクターがいてという感じだったんだけど、ある意味今までで一番贅沢な形で出せるかなと思っている。制作からレコーディング、ミックスまで自分たちで進めている企画があるんだ。

でも今までと違ってリリース日も決まってないから、もしかしたら完成したアルバムをLoriと2人で聴いて終わっちゃうかもしれないし...。とは言え11月が2人のデヴューした月だからそこまでには完成させてそれからどうするか決めようと思ってるよ。




To turn sixty-Watusi 60’s celebration-

 

DATE: 2018.9.4 (TUE) 18:00 OPEN 19:00 START 

ADM ADV6000YEN DOOR7000YEN

*1DRINK ORDER

 

ACT:

COLDFEET

Lori Fine (Vo) / Watusi (Bass) / SUGIZO(Gt)/ 佐藤タイジ(Vo & Gt) / 屋敷豪太 (Dr) / 龍山一平 (key) / 松岡”matzz”高廣 (Per)

 

TDO (Tokyo Discotheque Orchestra)

Watusi (Bass) / 松岡”matzz”高廣 (Per) / 堀越雄輔 (Gt) / 會田茂一 (Gt) / 屋敷豪太 (Dr) / 龍山一平 (key) / コバヤシ・ケン(Sax) / SAKI (Tp) / 金原千恵子ストリングス・カルテット / K-Ta (Vib)

Guest Vocal:bird / SILVA / 遊佐未森

 

DUBFORCE

屋敷豪太(Dr) / DUB MASTER X(Mix) / いとうせいこう (Words) / Watusi (Bass) / 會田茂一 (Gt) / 龍山一平 (Key) / コバヤシケン (Sax) / SAKI (Tp)

Guest : Zeebra

 

DJ : DJ EMMA / DJ Genchin

 

総合司会 : 武内享

 

venue:

WWWX

〒150-0042 東京都宇田川町13-17ライズビル2F

03-5458-7688

http://www-shibuya.jp/

https://www.watusi60.com

PLAYCOOL presents Paint it, Red! -Watusi還暦祭 After Party-

DATE: 2018.9.4(TUE) OPEN 22:00

ADV¥1,000 DOOR¥2,000

ACT:

Dirtykrates a.k.a Zeebra、Q’Hey、Ko Kimura、Wasei Chikada、AMIGA、Darthreider、YOKE a.k.a DJ Redblood、Naz Chris、Watusi (COLDFEET)、須永辰緒、DJ EMMA、Taira Sumida and more

http://www.contacttokyo.com/schedule/paint-it-red/

Written & photo by M.A

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