ヒップホップシーンを牽引してきたPublic Enemy(パブリック・エネミー)その心揺さぶる歌詞を紐解く

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ヒップホップシーンを牽引してきたアーティスト
ヒップホップ・ラップというジャンルの音楽は、1970年代から始まったとされているが、ヒップホップシーンでも数々のアーティストに影響を与えたのがPublic Enemyというグループである。その歌詞の内容は誠治的なメッセージも多く、ファンも多い。
ラジオから流れたデモテープから結成まで
Public Enemyは、ラップ専門ラジオ番組であるWBAUの番組の中で流れた、グループのリーダーであり、メインボーカルでもあるチャックDと、DJのハンク・ショックリーらが作ったデモテープに、アメリカの音楽プロデューサー・レコードレーベル経営者であるリック・ルービンが反応したことから始まる。その後、エンターテイナーになることが嫌で、メジャーに行くことを拒んでいたチャックDをリック・ルービンが説得をし、ボーカルのフレイヴァー・フレイヴ、ドラム・ロードマネージャーのプロフェッサー・グリフ、DJにターミネーターXの4人のメンバーに、ハンク・ショックリーをプロデューサー的な位置に迎え1982年にグループは結成された。
常に成長し続けるアーティスト
そして、1987年にはデビューアルバムである「YO!BUM ラッシュ・ザ・ショウ」をリリースし、1988年にはセカンドアルバム、1990年にはサードアルバムをリリースするなどの活躍を見せる。さらに、サードアルバムである「ブラック・プラネット」は好評を博し、重要保存録音物に認定され、アメリカ国会図書館に永久保存、Public Enemyのスクラッチのテクニックや今までにないサンプリングやサウンドは、革新的ですらあった。その後、Public Enemyはラップグループとしては初めてである世界ツアーを行い、アメリカを越えてヨーロッパやアジア圏にファン層を広げていき、異なるジャンルであるハードロックとのコラボレーションにも挑み、成功を収めている。その躍進ぶりは、ロック界に多大な影響を与えた功績として、2013年にはロックの殿堂入りも成し遂げている。
Public Enemyの誠治的な内容の歌詞は人に届く
順調そうに見えたPublic Enemyだったが、1989年にプロフェッサー・グリフの人種差別発言が発端となり、Public Enemy自体に批判が殺到、結果、チャックDはプロフェッサー・グリフを解雇するという出来事もあった。だが、Public Enemyの独特の社会派ヒップホップとも呼ばれる誠治を批判するような内容の歌詞は、様々なシーンに問いを投げかける内容であり、揺るぎない支持を得ている。
また、ヒップホップ・ラップは、時と共に派生や変化を繰り返しながらも、根強い支持を得ている音楽であるが、それらの歌詞の内容はラブソングであったり、パーティーラップであったりと多様である。だが、そんなバラエティーに富んだヒップホップシーンにおいて、メッセージ性の強いPublic Enemyの歌詞は、人種差別をテーマに描かれた映画「ドゥ・ザ・ライト・シング」のテーマ曲に採用された事実にもある通り、そのPublic Enemyの想いは人の心にストレートに入って来るのである。
永遠なるPublic Enemy
ハードコアラップやニューメタルなどの、新ジャンルの音楽に影響を与えたPublic Enemyであるが、原点は黒人に対する差別への怒りや、黒人コミュニティに誇りや自覚を持たせるメッセージの発信であった。それは誠治への批判や不満を訴える内容の歌詞へと繋がるが、抑圧され続けてきた黒人の歴史や現状を音楽という媒体に載せることで、たくさんの感情を消化する作業でもある。なお、Public Enemyの歌詞は、救急の体制や対応への批判など、誠治的な歌詞とも言われるが、暴力的な反動は否定しており、Public Enemyはメンバーの脱退や再入などもあったが、歳を重ねても精力的に活動を続けている。いくつになっても冷静に誠治を見つめ、誠治に対する批判的な内容の歌詞で綴るPublic Enemyの音楽は、世代を超えて受け継がれていくことだろう。
Photo: https://www.facebook.com/publicenemy/
Written by 編集部